Author : 中島 義道 | Manufacturer : 岩波書店 | ReleaseDate : 2007/10 | CustomerReview : 死の語れなさの哲学 - 主に著者の時間論に基づく「死」の哲学の書。ハイデッガーやレヴィナスやサルトルなどが参照されたりもするが、基本的には分析哲学的に「死」という経験の成り立ちを考察していくスタンスを維持しているので、変な文学随想めいた「死」の語りがなく非常に読みやすい(論旨が「わかる」かどうかはともかく)。「死」をあくまでも論理的に考究したい人には断然おすすめしたい一冊である。 「死の本来の恐ろしさは、無で「ある」ことではなく、なぜかいったん存在してしまったものが無に「なる」ところにあるのです」。ということで、死んじゃったら自分はもう存在しないのだから死について考えるのは無意味じゃないか、というエピクロス的な見解は却下される。自分はいま生きているがやがて死んでいく、という端的な事実に気がついている状態が、思考するに値するだけの重みを持っているのである。 「死が恐ろしいのは、無になるからではなく、「あとから」それを確認する視点をもちえないからなのです」。という洞察を支えているのが、著者の哲学的時間論である。「未来」は「現在」の先にあるものではなく、「現在」を「過去」として語ることによって、新たな「現在」に関する言葉として到来するものである。だが「死」という「未来」は、それを「現在」において「過去」として語り出すことが原理的にできない。その誰にとっても未知でしかありえない特異な時間的経験が、文字通り絶句する恐怖を呼び起こすというわけである。とりわけその(非)経験を予期して身につまされるのは、他人の死に間近に接したときである。彼が語れない彼の死は、私が語れない私の死を予感させ、また彼我の決定的な断絶を痛感させるのである。人間は、私が決して語れないものにおいてこそ、他ならぬ私であるのだ。 「ここで、私が死後獲得する新たな視点の代わりに、ある絶対的な他者(神?)の視点を置くと、それは考えられない仕方で「私が体験したこと」を現前化する通路を開くかもしれない」。これが、著者が示唆しようとしている、死の恐怖感からの逃げ道のひとつである。私が語れない経験を代わりに語ってくれる超越的な何かの探求。むろん、大森荘蔵にならい著者は、それを「神」と言い換え思考停止することには疑問を感じている。では、その「絶対的な他者」とはいかなるものか? まだたぶん誰にも明答できていない。ので、著者と共にそれぞれが哲学し、語れないなりに語ろうと努力していく必要があるだろう。 続き »
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